コンテンツ本文へ

本文中のすべての画像はクリックで拡大します。

【15歳で国鉄へ】

平成9年に他界した父は15歳から55歳で退職するまでの40年間にわたって国鉄職員だった。

国鉄に入ったのは昭和17年2月26日、身分は試傭で同年3月31日より庫内手として本傭となったようだ。給与は日給で95銭(下の写真)。

後に親父から聞いた話では、「戦争が本格化し、徴兵が盛んになった。長男として両親と4人の弟妹を食べさせて行かなきゃならなかった時に、『国鉄職員なら物資輸送があるから徴兵免除になる』と聞いたから、それまで丁稚として働いていた料理屋を辞めて国鉄に入った」そうだ。

昭和17年、国鉄へ

国鉄に入った昭和17年12月には機関助士見習となり、機関士としての生活が始まる。

昭和22年に正機関士、52年には機関士兼助役、57年には、参事補となってすぐに退職する。

当時の機関車は当然ながら蒸気機関車、SLである。トンネル内では煙がモロに運転席を直撃する。一度、親父がいつも乗務している路線、車両で、よく同乗している機関助士と同僚機関誌がトンネル内でSLの煙に巻かれてともに意識を失い、そのまま機関車は暴走、脱線して二人とも亡くなった。と言う話を聞いたことがある。なるほど、蒸気機関車時代の客車では、トンネルに入る前には放送があり、窓を閉めていた記憶がかすかにあるが、運転席については考えたことはそれまでなかった。

尋常小学校高等1年終了と言う学歴ながら、数学、物理など何でもこなし、木工から電気いじりまで自分でやっていた親父だが、趣味と言えるほどのものはなく、模型作りと、時折写真を撮っていた程度の記憶しかない。

【お召し列車 DD54型と親父】

機関車の中でもSLが好きだったが、SL写真を撮り歩くと言った鉄っちゃんではなく、乗務を通した形での愛着だったようだ。

SLがなくなってからは、電化されていない山陰本線ゆえに、ディーゼルの運転が主だったようで、下の写真のように「お召し列車」の運転も任された経歴がある。

お召し列車DD54上の父

父がお召し列車を運転したのは、昭和43年10月6日で竹野駅から竹田駅までの間の運転だった。左の写真はその1日前、10月5日に撮られたもの。場所は山陰本線豊岡駅機関区。ちなみに、この時の「お召し列車」はDD54初期型ディーゼル機関車の二重連(機関車2台で牽引)であり、鉄道模型メーカー、KATOから模型が発売されているように、鉄道マニアの間では有名らしい。

思い起こせば、お召し列車の運転が決まった後、いろいろと運転訓練について話してくれた記憶がある。マスターコントロールハンドルやブレーキハンドルの上にコインを立て、それが倒れないように静かに操作する。などである。本当かオーバーな表現かは分からないが、そのまねごとをした記憶も残っている。

記念品の菊紋杯

私の家にこのお召し列車のカラー写真はありませんが、豊岡機関区が属する、福知山鉄道管理局の福知山機関区での写真が「のんびりと鉄道写真」さん紹介されています。

その日親父が持ち帰ったのが写真の玉杯と菊紋の入った紙巻きたばこ(銘柄はハイライト)だったことも記憶に残っている。家族で酒をその杯で回し飲みしたっけ。

【その日親父が撮ったC58お召し列車】

親父が運転に奉じたディーゼル機関車、DD54は、SLのお召し列車、C58と接続したようだ。SL好きの親父は、なぜか自分が乗るDD54機関車よりもそちらの写真を多く残している。

C58お召し列車
C58お召し列車